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Friday, July 15, 2022

お茶の伝道師として横浜から全国へ発信! 元大洋、ロッテの堀井恒雄氏/パンチ佐藤の漢の背中! | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE - 週刊ベースボールONLINE

sagutgu.blogspot.com 野球以外の仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回のゲストは元大洋、ロッテで投手、コーチなどを務めた堀井恒雄さん。京都・城陽市の宇治茶の栽培農家で生まれ育った堀井さんは球界を離れた現在、横浜市内で宇治茶専門店「又兵衛」を経営。宇治茶の美味しさを、横浜から全世界に発信しています!
※『ベースボールマガジン』2022年3月号より転載

元阪神ファンが巨人、阪神キラーに


堀井氏[左]、パンチ氏


 堀井さんがプロ野球の世界を最初に意識したのは、大阪商業大学3年のころだった。1つ上の学年に、その年ドラフト2位でヤクルトに指名される大川章投手がいた。大川さんは、練習の虫。その大川さんと一緒に練習をするようになって、堀井さんのピッチング、ボールにも大きな変化が表れたのだ。

 堀井さんが大学4年生になると、プロ11球団から声が掛かった。社会人野球チームからも数多く誘いを受けたが、監督の鶴の一声で、プロで挑戦することを決意した。

 80年11月26日、大洋がドラフト2位で堀井さんを指名。このときの3位が中大・高木豊内野手、4位が東海大・市川和正捕手だった。

パンチ 京都で生まれ育って大阪の大学に進んだ方が横浜というのは、どうだったんですか?

堀井 ずっと阪神ファンだったので、正直阪神に行きたかったですよね(笑)。

パンチ プロの先輩方を見て、どう感じましたか。当時はどなたがいらしたのでしょう。

堀井 平松(政次)さんや斉藤(明夫)さんは、コントロールが素晴らしかったですね。僕は遠藤(一彦)さんの部屋子でね。遠藤さんの球も速くてすごかったですね。でも僕はもともと、「最初から一軍」とはあまり考えていなかったんですよ。半年から1年はじっくりやろうと自分の中で決めていました。ところが、やっぱり欲が出るんですね。最初の登録で、たまたま一軍に残ってしまったんです。それで無理をしたんでしょう。すぐ足を故障して、二軍に落ちてしまいました。

パンチ 1年目のキャンプだと「ちょっとここは落としておこう」とか、いい意味で抜くこともできないですし、緊張もあってピリッと来ちゃったんでしょうね。とはいえ、「痛い」とも言えないですしね。

堀井 そうなんですよ。ふくらはぎと太ももと2カ所痛めたもんですから、二軍では下半身強化ばかりやっていました。

81年、ルーキー時代の堀井さん。右は当時の土井淳監督


パンチ そこから一軍に上がって、どんなところで「よし、俺はやれるぞ」と思いましたか?

堀井 初めて一軍で投げたのが、開幕2戦目の巨人戦(81年4月8日)でした。リリーフで、最初のバッターがロイ・ホワイト。空振り三振を取りました。それから巨人戦にはメチャクチャ強かったですね。

パンチ それはなぜだったんでしょう。

堀井 よくは分からないんですが、巨人戦と阪神戦は何か打たれてはいけないような気持ちがあって……。

パンチ 僕は実際の試合数以上に、堀井さんの投げる姿をずいぶんテレビで拝見したようなイメージがありました。

堀井 (テレビ中継のある)巨人戦、阪神戦に投げることが多かったからじゃないですか。3連戦のうち2試合は投げていましたからね(笑)。

パンチ 大洋時代の一番の思い出はなんですか?

堀井 やはり関根(潤三)さんでしょうね。関根さんが監督になられて、僕も頭の中の野球が全部変わりました。

パンチ それはどういうことですか。

堀井 関根さんって、とても温厚な感じに見えたでしょう。でも非常に厳しく、怒ると怖い方なんですよ。僕は球場で歩き方が悪いと叱られました。「腰を入れて、しっかり歩け!」と。歩き方から怒られたのは初めてでしたね。

パンチ 関根さん、元祖二刀流で元ピッチャーでもあるから、ピッチャーにも厳しいんですね。

堀井 ピッチャーの代えどきを、自分の中でしっかり持っていらっしゃいましたね。僕は中継ぎばかりでしたけれども、ボール球から入るとか、カウントを悪くするとか2人、3人続くと簡単に代えられてしまいました。確かに僕は打たせて取る「グラウンドボーラー」タイプで、そういうピッチャーは高めにボールが浮き出したら絶対ダメなんです。関根さんは、その見切りが早かったですね。

ブーマー料理法は「足を動かす」


パンチ それからロッテにトレードで行かれたわけですね(88年)。セ・リーグとパ・リーグの違いはどう感じましたか?

堀井 バッターの迫力が全然違いましたね。あのころのバッターの質は、パのほうが上だったと思います。

パンチ ありがとうございます。セの場合、エンドランは「コツンと当てろ」ということで、それでヒットになればいいし、多少ボール球でも当ててランナーを進めろ、と。パの場合はエンドランといえば「ブンと振れ」。それで間を抜けたら一気にホームっていうのが、パのバッティングですからね。

堀井 ロッテのときの監督が有藤(通世)さんで、バッターはエンドランのサインで強い打球を打たないと怒られていましたよ。セはそんなに強く振らない。空振りしないよう、なでるというか当てるというか。だから余計、パの打者のスイングの強さは実感しましたね。

パンチ 迫力のあったバッターといえば誰ですか?

堀井 やはり外国人選手ですね。ブーマー(元オリックスほか)とか。でもブーマーは、僕の顔を見ると嫌がるんですよ。

パンチ 結構抑えていたということですね。どういう料理法だったんですか?

堀井「足を動かす」んです。まずヒザに当たらないようギリギリのところに、ボール気味のシュートを投げる。「ボール」と判定されてもいいんです。フォアボールでもいいということが頭にありました。そこから外にスライダー、スライダー、インサイドから曲がるようなカーブ。するとだいたい三振か、凡フライを打ち上げてくれました。

パンチ 堀井さんはコントロールが良かったんですね。

堀井 そのころは良かったですね。当時のピッチャーはみんな、スピードはそんなにないけれどもコントロールが良かった。今井雄太郎(元阪急ほか)さんなんかもそうだったでしょう。

外国人初の三冠王に輝いたブーマーにはめっぽう強かった


パンチ 引退のきっかけはなんだったんですか?

堀井 1990年のゴールデンウイーク、川崎球場での西武戦に投げてボコボコに打たれたんですよ(4月30日)。4回2/3を11安打、3四球、9失点。試合後、カネさん(金田正一監督)から監督室に呼ばれて、「お前、もう引退せえ」と言われました。自分の持ち球の中で、一番いいシンカーも打たれて……。

パンチ ピッチャーにもバッターにも、そういう最後の命綱みたいなものがありますよね。それはどんな球だったんですか?

堀井 右打者のインサイド低めに決まればいつもはショートゴロやサードゴロになるんですが、そのシンカーも通用しなくなっていて、「この球を打たれたら終わりだな」と思いました。

パンチ 金田さんはそんな心理状態までよく見ていたんですね。そこから残りのシーズンは、どうしていたんですか?

堀井「7月のオールスター明けからプレーイングコーチをしろ」と言われましてね。僕は周囲にも相談して、「最後はやはり、阪神でやってみたい」とトレードを志願したんです。幸い阪神側も、大洋時代に僕が阪神に強かったのを知っていたので前向きだったんですが、最後はカネさんの押しに負け、現役をあきらめました。

パンチ でも引退だ、クビだと切り捨てるような形ではなく、コーチとして重用してくれた。それはどこを見てくれたのだと思われますか?

堀井 僕はどんな試合でも絶対、抜かないんですよ。「抜いて投げる」ことができないものですから。いつも一生懸命投げていたところを見ていてくださったようです。

パンチ 中継ぎだと言われたときには「ここで俺?」ということもありますよね。そんなときも、どんな場面でも変わらず必死に投げていた。それを金田さんが評価してくださったんですね。

堀井 その点はうれしかったですよ。

 引退後はロッテで4年間、二軍投手コーチ、一軍投手コーチを歴任。その後は台湾に渡り、時報イーグルスで2年、投手コーチを務めた。

 帰国後の1年間は、解説者として外から野球を見た。98年、横浜ベイスターズの一軍投手コーチ(ブルペン担当)に就任。権藤博監督のもと、大魔神・佐々木主浩らの活躍で38年ぶりにリーグ優勝を果たした年である。「もともと二軍コーチで入るつもりだった」堀井さんは、翌年から6年間、希望どおり二軍コーチとして若手の指導に当たった。

 横浜退団後の2005年は、元巨人のウォーレン・クロマティが監督を務めた米国独立リーグのジャパン・サムライ・ベアーズで1年間、投手コーチに就いた。

先祖代々育ててきた「宇治茶」で勝負


パンチ 野球生活の最後は横浜のフロントにいらしたとうかがいました。

堀井 アメリカから帰国した翌年、横浜に復帰させてもらったんです。それでスカウトを5年。僕は現場に戻りたかったんですが、「フロントに入ってくれ」ということで2年間、フロントにいました。

パンチ スカウトや編成時代に関わった選手で、印象に残っているのは誰でしょう。

堀井 梶谷(隆幸=現巨人)ですね。僕がスカウト1年目のドラフト2位でした。(開星)高校時代は内野手。僕のスカウトの基準は、内野は守備優先。バッティングはプロに入ってから磨こう、という選手ばかり獲っていました。梶谷もそうでした。

パンチ 僕もプロを引退して分かったんですが、やはり守備って大切ですよね。よくバッティングはセンスで守備は努力と言いますが、それは違いますよね。

堀井 違います。逆です。守備は天性のもので、なかなか伸びません。でもバッティングは技術や練習量次第で伸びるんです。梶谷がそのいい例です。守備は抜群にうまかったから、特別練習しなくてもいい。その分の時間をバッティングに回したら、飛躍的に伸びました。

宇治茶の産地・城陽の茶園に生まれ育った堀井さんは5代目。現在は横浜の「又兵衛」を拠点に宇治茶の魅力を全国に発信している[写真提供:又兵衛]


パンチ 横浜を退職なさって、日本茶での勝負を決めたきっかけは?

堀井 僕は京都府宇治市の少し南にある城陽市出身で、実家が宇治茶の生産農家だったんです。ただ、お茶を作るばかりで、直接一般のお客さんに販売したことはありませんでした。ウチのいとこたちもほとんどお茶関係の仕事をしていて、農家もいれば問屋もいる。そこをうまく組み合わせて売ろうと、この『又兵衛』を始めました。

パンチ『又兵衛』という名前はどこから来たのですか?

堀井 1887年に茶農家を始めたわが家の先祖の名前です。田舎の屋号も『又兵衛』なんですよ。ローマ字にすると、本来は『MATABEI』になるんですが、「BEI」を外国の方が英語読みすると「マタビー」になってしまうので、日本語に近い発音をしてもらえるよう、『MATA“BAY”』にしました。

パンチ 僕は日本茶については門外漢で恐縮なのですが、宇治茶はどんな特長があるんですか?

堀井 宇治茶は日本一の高級ブランドといわれています。玉露と、抹茶の元になる碾茶が代表で、玉露の生産量は日本一です。玉露はぬるめのお湯で時間をかけて淹れると、うまみが増して美味しいんですよ。

パンチ 僕ら関東の人間はお茶といえば静岡と思っていますが、静岡茶とはどう違うのでしょうか。

堀井 お茶作りの工程に「蒸し」があるんですが、宇治茶は短時間で蒸す浅蒸しで、静岡茶はほとんど深蒸しなんです。深蒸し茶は強く蒸してあるので、お湯を淹れると茶葉がパッと開く。熱いお湯でも出やすいですね。

パンチ 今、堀井さんおススメの玉露をいただいているんですが、これは食事中に飲むにはもったいないですね。

堀井 茶菓子と一緒ぐらいがいいと思います。

パンチ お茶の色が、緑じゃなくて黄金色というか……。

堀井 そのとおりです。山吹色が、本当のお茶の色なんですよ。

家族のチームワークで8年間ヒットを重ねる


パンチ いやあ、僕は日本人なのに、日本茶のことを何も知らなかったですね。でも結構、僕のような人は多いですよね。堀井さんも「みんな、宇治茶のこと分かってないな」とか「もっとおいしい日本茶のことを知ってもらいたいな」という思いでこのお仕事をしていらっしゃるんじゃないでしょうか。そのあたりは、どんなふうにお客さんと向き合っていますか?

堀井 店に来ていただいた方には、こちらから話し掛けるようにしています。「どんなお茶を飲んでいますか?」「どこのお茶を飲んでいますか?」に始まり、「熱いお湯で淹れていますか? ぬるいお湯で淹れていますか?」「煎茶ですか? 抹茶ですか?」「ほうじ茶だけですか?」と。すると、いろんなことが分かってくるんです。

パンチ 堀井さんの頭の中に、データがあるわけですね。

堀井 そういうことです。それで、このお客様にはこれがいいなと思ったお茶を勧めています。中には急須をお持ちでないお客様もいらっしゃいますから、そうなるとティーバッグでないとダメですしね。

パンチ そのあたりを極めたのは、お店を始めて何年目ぐらいですか?

堀井 皆さんそう言われるんですけど、僕は小さいころからずっとジュースじゃなくお茶を飲んでいます。すると、自然とお茶の違いも分かってくるものなんですよ。

パンチ 今、このお店はご家族だけでやっていらっしゃるんですか?

堀井 最初はうちの家内(初美夫人)と2人でやっていたんですが、今は娘2人が店頭にも出てくれています。美術系の学校を出た長女が、商品パッケージのデザインもしています。

パンチ うちも娘がインスタグラムのこととか、いろいろアドバイスしてくれるんで助かっているんです。そういうのって大きいですよね。

堀井 そうなんです。だから横浜出身で知り合いの多い家内が、今は営業役に回ることができました。

パンチ ガッチリのチームワークですね。こちらの営業方針はどんなところにありますか?

堀井 値段が高くなっても、絶対にお茶の質は落としません。それだけは守っています。10個入りのティーバッグが1000円というと、皆さん「高いね」とおっしゃいます。確かにメーカーさんによっては、30個入り500円ほどで売っています。でもそれは、僕からしたら、いったいどんな茶葉を使っているんだろうなと思うわけです。そこはティーバッグでも、本物のお茶が飲める。そういう商品しか出さないようにしています。

パンチ 今、開業何年目ですか?

堀井 8年目になります。

パンチ ここまでの成績は野球でいうとツーベース、スリーベースですか? それともホームラン?

堀井 ずっとヒットという感じでしょうか。だからどこかでホームランをボーンと一発打ちたいですね。

パンチ 次なる目標は?

堀井 去年の12月から、横浜のお菓子メーカーのありあけさんと取引させていただいているんです。NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のロゴライセンス商品となる『侍ハーバー・勝栗抹茶』というお菓子にうちの宇治抹茶が使われているんですよ。こうやって地元密着というか、地元・横浜の方々にかわいがっていただけるようになって、そこからまた次のステップへとつながっていけばいいなと思っています。あとは京都と横浜と両方でうまく1年間を過ごせるようにできたら、こんな楽しいことはないですね。

パンチの取材後記


 いやあ堀井さん、本当に素敵な方でした。懐が大きく深く、優しくて、頭も良くて、だから現役時代に負けず引退後も輝いている人生なんですね。コーチとして優勝を経験し、海外も2カ国経験し、その中で教え子たちにも慕われた素敵な人生。

 野球界を離れたあとは、最高のハーモニーを奏でる家族4人で、先祖代々伝わる宇治茶を守り、育てていく。取材のとき、堀井さんの奥様にもお会いしたんですが、この方がまたとてもチャーミングな方なんですよ。家族でご商売をしているから、逆に言いたいことを言ってしまってケンカもするなんておっしゃっていましたけど、それもなんか、幸せじゃないですか。

 プロ野球選手、指導者とスカウト、そしてお茶の伝道師として3タイプ、3倍の人生を最高級のところで過ごしていらっしゃる堀井さん。「僕は幸せですけど、家内にはだいぶ迷惑かけていますね」とこっそり教えてくださいました。やっぱり優しい方ですね。

 僕もこれを機に、もっともっと日本茶のことを勉強したいと思います。

堀井氏[左]、パンチ氏


●堀井恒雄(ほりい・つねお)
1958年11月15日、京都府生まれ。大谷高から大商大を経て、ドラフト2位で81年に大洋入団。86年に47試合登板で7勝4敗2セーブを挙げるなど、主にリリーフで活躍。88年にロッテへ移籍し、90年限りで現役引退。通算成績は168試合、15勝17敗2セーブ、防御率4.47。引退後はロッテコーチ、台湾・時報コーチ、解説者、横浜コーチ、米独立・サムライベアーズコーチ、横浜・DeNAスカウト、チーフスカウト、編成部専任部長を歴任。現在は宇治茶専門店「又兵衛」(神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町1-7-2)を経営。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明

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