
江戸では静岡茶より宇治茶だった
お茶といえば静岡茶や宇治茶、狭山茶が有名です。しかし、戦前の東京では「渋谷茶」とうお茶が栽培されていました。今回は渋谷茶とその姿を消した理由について、ご紹介します。 【画像】茶畑があったころの道玄坂 皆さんは「上喜撰(じょうきせん)」という言葉をご存じでしょうか。元は「喜撰」というお茶のなかでも上級なものを指す言葉でしたが、のちに高級なお茶全般を表すようになりました。ペリー来航時の 「泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」 という落首(風刺などの意を含めた匿名のざれ歌)で知っているという人も多いでしょう。 江戸では上喜撰のなかでも宇治茶が一番よいものとして知られており、静岡茶はまだ知られていなかったようです。お茶の西の本場・宇治の上喜撰は上方から伝わり、江戸の身分の高い武士や寺院で重宝されました。
道玄坂上には茶畑が広がっていた
西の宇治茶に対抗しようとして、東日本で名を挙げたのが狭山茶。都市としての江戸が発展するとともに需要が増し、江戸近郊の村落でも栽培されるようになりました。 そのひとつが、当時は広々と田畑が広がっていた渋谷だったというわけです。元禄年間(1688~1704年)ごろのことで、農民たちもお茶を飲むことがあったようです。 特に享保年間(1716~1736年)に茶畑が多く、栄えたのが現在の道玄坂かいわいです。道玄坂の上の一体の、特に北側がに茶畑が多く、そこに存在していた「茶の木稲荷」という稲荷社が人気になり、周辺が繁盛していたという文書が残されています。 もっとも茶の栽培が盛んになっても、茶をどのように製造するかという知識は少なく、よいお茶を作ることが困難に。そのため、渋谷茶は近隣の商家などで飲まれる程度にとどまり、名を上げられませんでした。
銘茶「松高」が登場
転機がおとずれたのは明治になってから。11代当主の鍋島直大(なおひろ)は広大な土地を現在の渋谷区松濤・神山町近辺の付近を紀州徳川家から譲渡されます。そして、その地に狭山茶を移植して茶園を開きました。そこで職を失っていた旧士族を雇い入れ、栽培にあたらせました。 この茶園が「松濤園」であり、現在は高級住宅地となった渋谷区松濤の原型です。ここで作られたお茶は渋谷茶のなかでも特別で、「松濤」という銘茶となり、東京中に高級茶として知れわたるようになったのです。 士族以外にも近辺も農民などにも栽培にあたらせたことで、お茶の生産量は増大。茶摘みや茶もみは農家の子女が行うようになりました。銘茶「松濤」を扱ったのは現在の青山通り付近にあった茶屋など。もっとも製茶技術はまだまずく、宇治茶が東京に進出して競争を余儀なくされたことから課題となりました。 その様子を見ていた渋谷の地主のひとり、中村銀蔵という人物は発奮。自ら宇治に茶樹の栽培法と製茶技術を学びに行きます。そしてそれらを習得したのちに帰郷、苗木を取り寄せたり職人を招いたりして、良質な茶の生産に成功することになります。 そして1885(明治18)年には山手線が渋谷に開通。東京の人口も増加の一途をたどるなか、当時は武蔵野の村にすぎなかった渋谷産のお茶が、一躍近代都市となりつつあった日本橋や銀座、麻布、麹町などにも流通し、名を上げました。
からの記事と詳細 ( 若者が集まる渋谷区「道玄坂」 実はかつてお茶の名産地だった!(アーバン ライフ メトロ) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース )
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